Harayama Momen

福島県会津若松市日吉町 原山織物工場「会津木綿」原山公助さん

会津木綿は福島県指定伝統的工芸品であるが、現存する織元は二つとなってしまっている。 今回そのひとつの織元、福島県会津若松市日吉町の原山織物工場原山公助さんをお訪ねして きた。一度敷地に足を踏み入れると、一瞬にしてタイムスリップしたような感覚に陥った。母 屋、帳場、機織場等、明治32 年創業当時から改装や増築を加えて使い続けている建物たちが中 庭を囲っており、そこに流れている時間の重みがひしひしと伝わってくる。感嘆のため息を中 庭でしたあと、公助さんに工場を案内いただき、会津木綿についてお話を聞くことができた。

1. 会津木綿とは

会津木綿

木綿というと、私たちの身近な素材のひとつで「伝統工芸」という響きに首をかしげる方も いるかもしれない。しかし、現在多く市販されている木綿繊維製品の多くは、織り上げられた 布を染色した後染めの工法でできており、機織をベースとした先染め(精練した糸を織る前 に染め、機織によって多様な模様をつくって行く工法)の織元は一部の地域に残っているもの の、その工程が大量生産に不向きな性格上、その数は減少の一途にある。

会津木綿も例外ではなく、江戸時代にその技術が伝承され、明治後期~大正時代には最栄期 を迎えたが、当時30数社あった織元も、現在は2社のみとなった。戦中の金属回収で織機を回収さ れたため半減し、戦後も需要の減少とともに生産縮小を余儀なくされてきたという。会津木綿はその美しい縞模様と風合いのよさで知られており、丈夫で吸水性が高く、作衣や 反物、日用品に用いられている。

2. 創業当時から変わらないものづくりの現場

公助さん
公助さん

さて、母屋でお話をお伺いした後、公助さんに工場の中を案内していただいた。夕暮れ時の中庭に一度出て、まずは別棟の染め場へ。公助さんのものづくりの現場は少し薄 暗かった。その空間の中に戦前から大切に使い続けられた織機や釡がうっすらと照らし出さ れ、その一つ一つに圧倒的な存在感と公助さんの息遣いが伝わってくるようだった。天井には 乾燥中の黒々とした天日乾燥中の糸が大量に取り込まれていた。「普段ここはものすごく暑い んですよ」と公助さん。それもそのはず、染め場には藍染用の染め用と釜かけ用(化学染料)の釜があり、日中釜かけ用の釜には火にかけて染を行うそうだ。

とてもスペクタキュラーだった工程が「整経」だった。必要な本数の経糸を、長さを揃えて ビームに巻き付ける工程で、会津木綿の特徴である縞柄はこの経糸のボビンの配列を変えるこ とで様々な模様になるため、経糸に色の違う複数の糸を使う場合のデザインは、この経糸の配 列で決まる。一見ばらばらに配置された糸が、小さな穴をくぐって美しい縞模様をつくる光 景に私たちは目を奪われた。
母屋に戻り、製品を見せてもらった。ここで、ご説明いただいていると、公助さんのお母様も お見えになって、会津木綿の変遷に関してお話を聞くことが出来た。

現在では、公助さんのお仕事の多くは化学染料によるものだという。その理由を尋ねると、最 近では藍染の需要が減っている一方で、藍染は特に手間と時間がかかり、採算が取れない、と ご回答いただいた。藍染は、染めはじめると、綿糸の質にもよるが一週間前後かかり、毎日釡 を攪拌し続ける必要があるという。染め上がった後には、糊付けをし、季節に応じて2〜7日かけ て天日乾燥をおこなう。

完成したボビン
完成したボビン

次に、再度中庭を通って、機織機のある別棟へ。ここでは糸から布地へと織り込まれていく一連の過程を目の当たりにした。普段コンピュータという目に見えないシステムのブラックボックスを相手にしている私たちにとって、多量に積まれた糸の山、整然と並ぶ多様な色のボビン、そのボビンの配列から縞模様が突如現れるシーンなどは、ものづくりの物質性を見せ付けるかのように非常に鮮烈で迫力があった。

ここには、28 台の機織機に様々な色の縞模様を見ることができた。しかし、ここで見られた のはほんの一部で、原山原山織物工場には代々伝わる約100種類もの縞模様があり、年に5、6種 類、お客さんとともに新柄に挑戦しているそうだ。
ここには、28 台の機織機に様々な色の縞模様を見ることができた。しかし、ここで見られた のはほんの一部で、原山原山織物工場には代々伝わる約100種類もの縞模様があり、年に5、6種 類、お客さんとともに新柄に挑戦しているそうだ。

最もスペクタキュラーだった工程が「整経」だった。必要な本数の経糸を、長さを揃えてビームに巻き付ける工程で、会津木綿の特徴である縞柄はこの経糸のボビンの配列を変えることで様々な模様になるため、経糸に色の違う複数の糸を使う場合のデザインは、この経糸の配列で決まる。一見ばらばらに配置された糸が、小さな穴をくぐって美しい縞模様をつくる光景に私たちは目を奪われた。この経糸を機織の操口に掛け、準備ができたら、経糸に横糸を織り込んでいく機織の工程の現場へ。

この経糸を機織の操口に掛け、準備ができたら、経糸に横糸を織り込んでいく機織の工程の 現場へ。
この経糸を機織の操口に掛け、準備ができたら、経糸に横糸を織り込んでいく機織の工程の 現場へ。

ここには、28 台の機織機に様々な色の縞模様を見ることができた。しかし、ここで見られたのはほんの一部で、原山織物工場には代々伝わる約100種類もの縞模様があり、年に5、6種類、お客さんとともに新柄にも挑戦しているそうだ。織られた生地は巨大な機械で湯通し乾燥の後、生地として完成を迎える。母屋に戻り、製品を見せてもらった。ここで、ご説明いただいていると、公助さんのお姉様の典子さんもお見えになって、会津木綿の変遷に関してお話を聞くことが出来た。

織られた生地は巨大な機械で湯通し乾燥の後、生地として完成を迎える。
織られた生地は巨大な機械で湯通し乾燥の後、生地として完成を迎える。

3. 創業当時から変わったこと

創業当時から変わったこと
創業当時から変わったこと

ものづくりの現場や技は伝承され、大切に使われ続けているが、時代とともに多くの変化が ある。先述のように、需要の減少に伴い、30数社近くあった織元は現在2社のみとなった。現在の工場 を存続できた理由として原山さんは、反物主流だった生産ラインに、観光客向けに製品化した 小物類を加えたこと、また伝統的な藍染の縞模様の生産量を抑え、現代人の趣向に沿った、多 彩な色の縞柄を主流にしたことだと語った。また、地元の織元の減少に伴い、地元の藍染の原料となる藍玉や綿糸は地元のものから県 外の工場から買い入れを行うようになった。元来会津地方は藍の栽培に適した地域で、また綿 花栽培の北限の地であり、かつては地元産の綿糸や藍玉を使っていましたが、それが難しくなったという。

お店
お店

創業当時からたいせつに守られ、受け継がれてきたワザやこころがある。一方で変わらなけ れば生き残れない現実もある。そういった現実と向かい合いながら、戦っている職人さんの熱い現場を目の当たりにし て、おなじものづくりを志す人間として、大きな刺激となった。最後に、公助さんのお姉様の典子さんによると、会津木綿の縞柄は多様にあるが、昔は、地域ごとに特 有縞柄があり、着用している縞柄で出身地域が分かったそうだ。「これは猪苗代茶縞っていう のよ」と猪苗代地域特有の縞の名前を教えていただいた後に、「これは?」と多色織のものを 指して伺うと、「これは製品番号でよんでいるのよ」と笑いながら教えてくださったのが印象 的であった。

岩瀬 諒子

Photos © by Peter Brune